ダイバーシティとインクルージョン




 この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2021の8日目の記事です。

 個人的な失敗の話をします。自作でダイバーシティについて考えて実装を試みて、足元を掬われた話です。他山の石にしてください。

ダイバーシティ、インクルージョン、ポリコレ

 先日、GAPフラッグシップ銀座を訪れたら1階のエスカレーター前にthe diversity projectというパネル展示が設えてありました。写真家のレスリー・キー(Leslie Kee)による様々な人種やセクシュアリティの方のポートレートを展示しています。
 撮られているのはモデルや歌手の方が多く、日本の店舗での企画なので日本人も多数参加しています。写真はどれも綺麗ですが、もちろんそれが既に選別を含むという指摘や批判はできると思います。ダイバーシティを謳いながら排除されている人もここには沢山いる。けれども、これが完成形ではなく過程であるという留保をつける限りにおいて、企業理念として一定の価値はあると思います。たとえばこの店舗なら異性のカテゴリの服でも抵抗なく買えるという安心感があるのは、ひとつの実際的な効用です。

 こういった、ダイバーシティの尊重という動きは近年少しずつ日常に浸透しつつあるように感じます。ダイバーシティは英語で多様性という意味で、人種・セクシュアリティ・障害といった様々な観点における多様性を尊重しようというポリシーのことを指します。精神障害者である筆者は、こうした潮流をマイノリティの当事者として《基本的には》歓迎する立場です。
 よくダイバーシティとセットで使われる言葉には、インクルージョンがあります。包摂という意味で、いろいろな属性の人、特にマイノリティの人を社会の仕組みから排斥しないという含意があります。それが無条件に良いことかどうかは議論の余地があるのですが、たとえば社会保障制度の枠組みにおいては、必ず考慮しなければならないことでしょう。
 こうした潮流をポリコレと揶揄する向きはあります。ポリコレはポリティカル・コレクトネス(political correctness)の略で、直訳すると「政治的に正しい」という意味です。批判を受けないように差別的な言葉遣いをなくしたり、マイノリティに配慮したりすること、それが倫理的でなく専ら政治的な企図でなされることを指す言葉で、ポリコレという言葉自体に「形だけの気遣い」と揶揄するニュアンスが入っています。揶揄されても仕方のないポリコレと、そうでない倫理的な活動との間に明確な線引きは困難ですが、ケースバイケースです。形だけと言われようが必要な活動もあるし、そうでないものもあるでしょう。

 我々がここで考えようとしているボードゲームの話でいえば、先日『プエルトリコ』の20周年記念版で労働者コマの色が茶色から紫色に変わり、背景設定も若干見直されたことが話題になりました。元版の茶色い労働者コマは言うまでもなく奴隷船に乗せられてくる黒人奴隷であり、ゲームのテーマは植民地経営です。歴史的に正しく、そして差別的なモチーフであるのは誰の目にも明らかであり、そしてこのゲームは『アグリコラ』が登場するまでずっとBGGのランキング第1位でした。版元は現代の潮流を踏まえてこのテーマをようやく改訂しました。
 その改訂が悪いとは言いません。言いませんが、個人的にはポリコレだよなあ、と思います。20年間差別的な、という言い方が強すぎるならばproblematicなモチーフを扱っておいて、それを無かったことにしますというのは都合が良すぎます。手元に記念版の実物がないので(というかひとつ前の記念版を持っており、20周年版を買う予定がないので)細かい検証はできませんが、コマの色や設定を改訂すること自体はかまいません。が、初版がどんなゲームで、どういった点で物議を醸すものだったか、それに対しパブリッシャーはどういう見地から改訂を施すに至ったのか、その経緯と態度を新版に記録しておくのが誠実な態度だと思います。それがなされなくては、差別にフタをするだけで意味が薄いです。後日確認したいと思います。

 『プエルトリコ』はあくまで一例ですが、概ねこういった概念が、今回の話の前提としてあります。

ダイバーシティを実装する

 2018年に『ラミーファイブ』というゲームを作りました。
 カード32枚で5枚麻雀をするゲームで、台湾の民間ゲームのトランスクリプション(移植)です。

 今回の話で重要なのはカード構成で、同一構成の2スートがあり、各スートにはA-B-C, J-K-L, sの7つのランクがあります。ABCとJKLはシーケンス(順子)を構成し、枚数の多いsはセット(刻子)を構成します。ゲーム的には各ランクに強弱の差はほぼないのですが、元ゲームが中国将棋(象棋)のコマを使うもので、Lは将棋の玉将に相当するため、J-K-Lのほうが若干高得点の役を割り当てられています。
 元の中国将棋のコマを使ったゲーム(象棋麻将)では当然アルファベットではなく「将士象-車馬砲-卒」という7種類です。将士象をLKJ、車馬砲をCBA、卒をsに変更するところからデベロップ作業を始めました。各ランクの対応は次のとおりです。

砲 - Archer - 射手
馬 - Ballista - 大弓
車 - Chariot - 戦車
象 - Jester - 道化師
士 - Knight - 騎士
将 - Lord - 王
卒 - Soldier - 戦士

 ダイバーシティを意識したのは、「将」の訳語としてKingはダメだよな、と思ったところからです。現代のゲームでここを男性にするのは性差別の観点から問題があるのは考えるまでもなく明らかで、だから性別の含みがより薄いLordとしました。王という訳語は直訳ではありませんが分かりやすさを重視しています。これに女性キャラを割り当てて「女王」ではなく「王」とすることで、性差を強調しない呼び方にできる。
 ですから、たとえばトランプに倣ってK-Q-Jとすれば直感的ではないかという意見も頂きましたが、King-Queen-Jackという並びがすでに旧来の社会のそれであり、採用はできませんでした。また本作は象棋コマ自体の移植でもあることが望ましいので、元のコマと同じ構成を極力踏襲して他のゲームも遊べるようにしておく(たとえばJesterをMageにするのは考えましたが、K-L-Mでは他のゲームと非互換になります)。その上で元の象棋麻将の役と結びつくようなランク名にし、かつジェンダーに依存しないという、様々な条件を満たすように作る必要がありました。

 ルール自体は既存ですから、用語上の大まかなインターフェースを上記のように考えたところで、グラフィックを制作しながら細かい点数や役などのデベロップを行っていくことにして、グラフィックデザイナーさんに制作を依頼しました。
 要望の概要は、ダイバーシティ対応であること。すなわち各ランクにキャラクターイラストを対応させ、その描写においてセクシュアリティ/ジェンダーが偏らず、人種もできるだけ多様にして、年齢の幅もとること。障害者を入れるという観点が制作中完全に抜けていたのはひとつの反省点で、何かしら採用したほうが良かったなと思っています。ほかの点は普通のゲームと同様に、キャラクターの視認が容易であること、キャラクターイラストがランク名や役の条件を想起させること、などです。キャラクター7種類、うちSoldier(戦士)はちびキャラにしたので実質6種類と考えると、そこまで大きな表現幅はとれません。細かい点が難しい依頼でしたが、誠実に仕事をしてくださいました。
 最初に決めたのはLordのデザインで、これを固めておいて作者どうしで世界観の共通了解を作りながら、宣伝のフックにすることでゲームの印象を明確に伝えることができる、とグラフィッカーさんに提案していただきました。これはすごく効果的で、宣伝もそうですが、何より自分たちのモチベーションが大きく上がったのを覚えています。私からの指示は、女性・非白人であること、権威的でなく包容力のある印象にすること、等です。チベットやインド、あるいは東南アジアといったイメージのあるキャラクターにしていただいて、このLordはカードとしても箱絵としても非常にパワーがありました。本作のコンセプトを象徴するキャラクターです。

 Soldierを除いた残り5種類のキャラクターですが、私もパッケージゲームはまだ2作目だったので細かい指定をすべきかどうか迷いました。ある程度は裁量におまかせしたほうが描きやすいのではないかと考え、「LGBTのキャラクターを1人、AfricanまたはAfro-Americanのキャラクターを1人、Agedなキャラクターを1人、各々キャラの名称や特徴と相性がいいところに入れてほしい」といった形で、枠だけを切ってその中のやりくりはグラフィッカーさんにおまかせする形にしました。

インクルージョンの陥穽

 実際に私たちがどう対応したかは、成果物を見ていただくのが早いと思います。


 性別、肌の色、民族的モチーフ、年齢などはある程度散らしてます。もちろんお互い初めての試みですし6種類のキャラクターで機能も決まっている以上限界はあるわけですが、グラフィッカーさんは要望にすべて応えて一生懸命に実装してくださいました。このゲームが未だに人気が高いのは、我々のそういった細かい仕事の跡が滲み出ているからだと私は思っています。
 そう、なのですが。

 この仕事において、私はいくつか失敗した点があります。
 さきほどの障害者の考慮漏れもそうですが、より端的なポイントを挙げます。ArcherはLGBT的なキャラクターを想定しているが、描写が類型的である。ABCの(ゲーム上の)低ランクにアジア人と黒人が集中し、JKLは女性や白人が多い。特に後者は、できる限り様々な属性のキャラクターを包摂したつもりが、その中で分断が起きている。
 JKLについては制作中に薄々気づいており、直そうかどうしようか相当悩んだのですが、今からイラストを差し戻せば入稿に間に合わない。仕様変更の追加金額は自分が払えば済むけれど、ゲーム自体を落とすのは怖い。Lが非白人だから最後の一線は守れると判断し、直しませんでした。
 実際にプレイヤーさんの声を聞くと、キャラクターの人気はJKLに集中しています。これが日本社会の現状の縮図であり、このゲームが図らずも露呈させてしまった階層構造です。

 言い訳はしません。本当にダイバーシティもインクルージョンもやる気があるのなら、もっと細かく自分で考えてラフや仕様を切るべきでした。認識に甘さがあったし、私の勉強も覚悟も足りなかった。
 そしてこれはグラフィッカーさんのせいではありません。嫌味ではなく本心です。こちらの指示がぼんやりしていたのがまず悪い。そしてキャラグラフィックには「ゲーム上の機能と対応するイラストにする」という、これも極めて重要な責務があります。たとえばAとBは「鷹の目」という出来役の条件になるため、弓を必ず見せなければならない。Cは戦車であると同時に人でなければならず、さらに将棋モチーフの、すなわち戦いの雰囲気を残さなければならない。ましてダイバーシティは商業作品にさえ完璧はありません。こうした複数の困難の隙間をうまくクリアするイラストを仕上げるのは、大変なことです。その要求に限られた時間で精一杯応えてくださったことには、本当に感謝しています。
 いや、細かい責任どうこうという話をすればお互いに責任があるのかもしれませんが、明確に責任範囲を分けられるものではありません。これは私のプロジェクトであり私のゲームです。仕様を決めて指示してレビューして検収したのは私であり、成果物への責任は常に自分で負わなければなりません。それが制作というものです。

 多様性をもたせようとしても、どこかで排除が起きる。包摂はともすれば権力の行使を含んでしまう。頭では分かっていたつもりでしたが、自分がやってしまうとちくちく胸が痛みます。

私たちは何をするか

 『ラミーファイブ』は、よく増刷希望のお声をいただきます。私もすごく愛着がある作品ですから何度も検討しましたが、結局、できないという結論に至っています。

 その最大の理由が上に書いたことです。特に今は、3年前とは社会の状況が違います。私の作品も何人かの海外ユーザーさんに見ていただいて、たぶん今増刷をかければ海外に行くでしょう。そのとき、これらのカードがどう見られるか? 気にしすぎかもしれません。しかし、作者としては不安なしとしません。
 この3年で、拙作のパッケージゲームもありがたいことにBGGに登録されました。そしてBGGに入るということは「ゲムマの同人ゲーム」ではなく「日本のスモールパブリッシャーのゲーム」と見做されることを意味します。商業の諸作品と同列に見られるのです。ゲムマ、という我々制作者を守り甘やかしてくれる文脈はありません。実際私のある安価な時事ゲームが、BGGページでは極めてしっかりしたレビューで厳しい評価をいただいています。日本の時事テーマという文脈も、ゲムマ直前でお祭り的に作った100円ゲームという文脈もそこにはないのです。
 ですから、増刷ではなく版上げとして、カード定義やキャラクターの再検討を行わなくては、国外での評価におそらく耐えない。そこまでする体力も見識も、今の自分にはまだありません。

 だからと言って、国内に引きこもって国産同人の世界でのみ通用するゲーム制作にとどまることはできません。いえ、そういう戦略ももちろんあるのですが、少なくとも海外ユーザーとつながる道を選んでしまった私にはもうできません。
 今は2021年であって、『プエルトリコ』の初版が発売された2002年ではないのです。ル=グウィンがすでに『ゲド戦記』で肌の黒い人間をマジョリティ、白い人間をマイノリティと描写しているのに、今更ハイファンタジーといえば無批判に白人ばかりを出し、アジア人である我々の肌の色でさえなんとなくホワイトウォッシュするようなことが、どうしてできるでしょう? 保守回帰する道など我々にはありません。よりよい世界を模索していく義務しかありません。ボードゲームという普遍性を持ちうる媒体だからこそ、《外部》を、《他者》を、強く意識しなければなりません。

 『ラミーファイブ』は良い作品です。自分で言うのもなんですが、素敵な絵に遊びやすいグラフィカルUI、カード定義のローカライゼーション、あのときできる最大限の努力をしました。たくさんの方が愛してくれるゲームになりました。
 それでも傷はあります。擦り傷とは言いがたい傷を、私はきちんと引き受けて制作を続けていくしかありません。もしどこかで見る機会がありましたら、その苦労と戦いの跡も見てやってください。こうして失敗をシェアすることで、あなたが私と同じ轍を踏まないことを、ダイバーシティへの意識がもっと広がることを願ってやみません。



<2021/12/08>


←No.39 二階から逃げる No.41 TTP賞2020応募作のデザイナーズノート、あるいは2人用作品の悩み→
コラム一覧へ トップページへ