二階から逃げる




 この記事は、Trick-taking games Advent Calendar 2021の2日目の記事です。
 ビッドというメカニクスを少し大きな枠組みで俯瞰します。本記事はメカニクス論ですが、自分の見解を述べるよりは、その前提となる土台の共有をすることが主な目的です。

 先日、サークル「梟老堂」の福夕郎(ふくたろう)さんとトリックテイキング制作の話をしてて、ビッドをつけるつけないの文脈で彼が「ビッドは逃げだと思ってます」と述べたんですね。結論を一部先取りすると、この見解は議論の余地もなく正しいことを説明するのが本記事のひとつの目的です。ですからこれを読んで「そうですね、当然だ」と思った方には、それほど得るもののない記事です。
 つまり、たいしたことは書きません。それでも書くのは、せめて愛好者のあいだでは共通了解のラインを上げておきたいからです。

ビッドは何をしているか

 2016年のアドベントカレンダー記事でも触れましたが、ビッド(bid)は英語で「競り」の意味です。ピノクルやユーカー他多数の伝統ゲームを参照すればわかるように、元来のビッドは競り上げでありオークションです。スペードやオーヘル(またはその派生形であるウィザードやスカルキング)のような、各自が宣言ちょうどを狙うイグザクトビッド(exact bidding)はちょっと事情が異なると私は考えていますが、そのことは後でまた述べます。
 この競りは、取れるトリック数のチキンレースをするだけではありません。自分の手札で有利に戦えるようなゲーム方式(切札あり、切札なし、ミゼールなど)や切札の種類を設定するほうにむしろ主眼があります。トリック数を決めることと、ゲーム方式や切札を決めることとは意味が明確に異なっていて、前者はルールの範囲内で勝負しているのに対して、後者はベースのルール自体を変更するものです。ルールを変更するのは、単純に切札固定・取ったトリック数の多い方が勝ちというベースのルールだけで勝負を決めると配り運や技術だけのゲーム、平面的な遊びになるからです。手札が悪ければ何をしても勝てない。

 トリックテイキングのビッドが効果的に作用する理由は、競りによってゲームルール自体に変更を及ぼすからです。手札から1枚ずつ順繰りに出す、リードスートをフォローする、数比べをして勝敗を決める。ベースとなるルールが一階(first-order)とすれば、競りで切札やゲーム方式を決めることは二階(second-order)です。メタルールです。ここでは階(order)というのは、ルールやその集合のレベルを区別する概念として使っています。
 トリックテイキングの根幹、すなわち配られた手札で数比べをするゲームメカニクスは、手札の配り運に依存します。カードをランダムに配っているのだから当たり前です。強弱のあるカードをランダムに配って、しかもどんな手札でも平等に勝負できるようにするというのは、要求自体がある種の矛盾であり不可能事であり困難です。一階のルールでは対処できない、だったら二階のメタルールに逃げて、手札で勝負できる幅を広くとる。切札やトリックの勝ち負け、勝利点といったルールの一部をプレイヤーに決めさせれば、配られた手札で勝負できる余地は大きく広がる。だからトリックテイキングはビッドをするのです。
 競りというのは便利というか、小狡いシステムです。リソースだろうがルールだろうがほぼなんでも俎上に載せられるし、プレイヤーが勝手にバランスを取ってくれる。レーベンヘルツ旧版などはまさにそうで(あれは良いゲームで旧版・新版共に好きですが)、手番順なりアクションの権利なりを競りにかけておけばゲームの「らしさ」は俄然出ます。トリックテイキングのビッドの場合は手札運を緩和してゲーム幅を広げるという大きな効果がありますが、ここでやっていることはメカニクスの観点から言えば一種の逃げです。メカニクス上の困難を高階に逃げて回避する。冒頭で紹介した「ビッドは逃げである」という言明は、まさにそのことを意味しています。
 (ということで、本記事のひとつの目的は果たされましたが、もう少し話したいことはあります。)

ビッドの良し悪し

 逃げること自体は、全然悪くありません。
 ゲームは面白いことが至上命題であり、ビッドによって面白くなるならそれでいいのです。上記の話はただのメカニクス分析であって、その良し悪しはひとまず問題にしていません。古いゲームからコントラクトブリッジに至るまでことごとくビッドを採用しているのは、それが面白いからです、とあえて言い切ってしまいます。私がこのジャンルを好きなのは極論すればオークションが好き、競りゲームが好きだからです。

 ただ、まあ、それだけではモダンゲームとしては不足です。ビッドを突き詰めることは伝統ゲームがわりとやってくれてる感があって、新しいメカニクスを希求する現代ボードゲームの枠組みにあって、いつまでも二階のゲーム部屋でスカートやピノクルに安穏としてていいのか、って話はあるわけです。悪く言えば、競りを導入すれば問題が解決するなんて当たり前であって、メカニクスの困難には正面から挑んで解決すべきではないか? レーベンヘルツだって競りのない新版のほうが簡潔で世評は高いではないか? 「逃げる」という言葉には、モダンゲームとして正面切った課題解決をすべきだという、このあたりの問題意識がニュアンスとして含まれています。
 というかこの話、この記事はですね、2018年のアドベントカレンダーの『現代トリックテイキングへの道(前編)』で黒宮さんがおっしゃっているのと全く同じことを、3年遅れで説明しているにすぎません。主張のコアを以下に引用します。

ここで「アボット以前に現代トリテはなかったのか」という疑問が生じます。これに対する私の答えは「『どんな手札でもやりようがあるトリテ』をデザイナーが『意図的に』作ろうとする、というのが現代トリテにとって重要な要素であり、その意味で現代トリテの創始者はアボットだと考えていいと思う。ただし『どんな手札でもやりようがあるトリテ』の萌芽はそれ以前からすでにあった」。

 黒宮さんの記事で、この問題に対する説明は実は足りています。この記事は内容の充実が物凄いのにあまり言及もされず浸透もしていないように思えるので、未読の方はぜひお読みください。私が上に書いたのは、同じことを歴史でなくメカニクスの側から(つまり若干ユーロゲーム側に寄せて)説明したかったからです。ビッドが言葉通りの競りであるという認識を補助線として持っておくと、見えてくる景色が違うと思うのです。
 ところでビッドは競りだと繰り返していますが、イグザクトビッドは競りじゃありませんよね? あれは競り値というかトリック数を宣言する行為を指して慣習的にビッドと呼んでいるだけで、実態としては狭義のビッドではありません。全員が勝負に等しく参加できるという観点では、イグザクトビッドは現代トリックテイキングの目指すところに近いです(だから私は、イグザクトビッドを本当はビッドと呼びたくありません)。

筆者の思うところ

 最後に、ビッドシステムから降りる制作、ということについて私の感想をつらつら書きます。

 二階からもう一度逃げて、手札問題に一階で正面切って取り組む、これ自体は重要です。うまく言えないのですがそれは、ボードゲームのデザイナーが明確になってパッケージとして流通していることと関係があると思うんですね。作者性はシステムやメカニクスの独自性をもって語られるものである以上、否応なくメカニクスの工夫を施さなければ創作の名に値しない。競りをいじることはゲーム自体の発明とは微妙に異なる。そしてゲームが自覚的に記述されてルールが容易に比較集積され得るようになった現代では、伝統ゲームと同じことをしてもしょうがない。的外れかもしれませんが、個人的には漠然とそんなふうに現代ボードゲームの課題を捉えています。

 ただ、これも個人的な所感ですが――ビッドでもいいじゃん、と思うんです。

 ビッドもノンビッドも両方作って、両方遊ぶ身としては、どちらにも楽しさがある。特にビッド系ゲーム(黒宮さんの言葉を借りれば「オンブル・スキーム」に則ったゲーム)の中には、技倆を問われる洗練されたゲームも多いです。そういう楽しみが、少なくとも日本のボードゲームシーンでは上手に共有されているとは言い難い。
 現代的なノンビッドゲームは、システムの実験段階にいると思います。イグザクトビッドだってオーヘルからスカルキングに至ってすっかり所を得た趣がありますが、個人的にあの系統は飽きが早く来ます。ずっと同じことをやってるからです。短時間でまとまって終わる現代ボードゲームとしてそれが重要な要件であることは理解しつつも、戦略があるのかないのか微妙なノンビッドのゲームも少なからず発売されているのを見ると、もっとやること他にあるんじゃないのか、と思わずにいられません。日本の同人は特にそうで、古典のビッドを知らずに作っているとしか思えないゲームも中にはあって、歴史を飛ばして現代の形式や書法をヨーロッパのパッケージから一気に輸入してロシア・アヴァンギャルド、あるいはプロコフィエフやストラヴィンスキーみたいな成果に結実すれば良いことですが、メカニクスの意味を理解していないと有意義な成果にはなりません。
 私はオールドスクールなビッド系のゲームも意識して書くようにしています。伝統はいい形で輸入したいし、型に習熟しないと型の先に行けないからです。ビッドの楽しさを追求する余地はまだきっと少しはあるし、ノンビッドにだって当然可能性がある。結局そこのデッキをシャッフルする限り手札問題からは逃れようがないわけで、課題を認識しながら自覚的にどちらか一方への固定化から逃げ続けて自由さを失わない、そういう制作がしたいと思っています。



<2021/12/02>


←No.38 飴と鞭 No.40 ダイバーシティとインクルージョン→
コラム一覧へ トップページへ