きゅうりはトリックテイキングか 〜定義にまつわるエトセトラ〜


※この記事は「Trick-taking games Advent Calendar 2017」の11日目の記事です。



トリックテイキングの定義、をめぐる話をしたい。

といっても、一昨年のアドベントカレンダーでゴクラクテン氏と草場純氏が、それぞれのエントリで同じ話題をとりあげている。そこに自分なりの見解を足すことに意味があるかどうか分からないのだけど、一昨年の議論とは切り口をすこし変えて語ってみたい。
前半ではこれまでの議論を検討して、そこに感じた個人的な疑問点をとりあげる。それを踏まえたうえで、後半では私の定義を提示しながら、そこから何が見えてくるかを考える。筆者の力不足で歴史を綿密には調べられなかったので裏付けが不十分かもしれないが、しばらく付き合っていただければ幸いだ。

1 議論の目的
2 既存の定義の検討
3 自分の定義
4 分類と境界

※本記事は草場さんの2年前の記事に対するひとつのアンサーである。彼の議論に対して(ある意味で)異論を唱えることになっているのだが、『どうだろうか、貴方の定義では1つしかスートしかないカードで、トリックテーキングは成立するのだろうか?』と聞いてくださっているので、きっと私の異論も許してもらえるだろう。


1 議論の目的

その前に根本的なことを確認しておこう。そもそも「トリックテイキングの定義」をわざわざ検討する意味があるのか? 個々人の数だけ定義があるし、別に遊べていたらそれでいいではないか?
そこには興味深い論点があって、それについては記事の終わりのほうで述べようと思うが、ひとまずは次のように答えておこう。まずこの種の議論に必ずしも実用的な意味を求めなくともよいと思う。自分なりの定義を考えて、伝統ゲームや新作の分類・分析をすること自体にも面白みがあるわけで、談論風発を楽しもうということだ。
そして、そうした議論は意外なところで役に立つこともある。今年Trick Taking Partyゲーム賞が開催されたが、その応募要項でゲームの要件は以下のように決められている。

フォローするとトリックの勝敗に参加する事ができる(フォローしない/できないとトリックの勝敗に参加できない)と言う要素を含んだトリックテイキングゲーム

これはまさに、TTP賞という枠組みにおける「トリックテイキングの定義」にほかならない。コンテストを実施するには対象の線引きをする必要があって、そのために「何がトリックテイキングか」を決めておくことが、ここではごく実用的な意味をもっている。

ではその「トリックテイキングの定義」はこれまで、すなわち2015年時点ではどのように語られてきたか?
ゴクラクテン氏の記事「トリックテイキングの定義」は、考察というよりも、このジャンルへの導入として見通しのよいガイドを示している感が強い。この記事にもひとつの見識がみられて興味を惹くのだが、今回は詳細には検討しない。本記事の読了後に読んでいただくと、かなり観点が異なることが分かるはずなので、彼と私の視点の差(優劣ではなく)を見ていただくのも面白いかもしれない。
ここでは、草場氏の記事を主に検討してみよう。重要な議論なので細かくみていくことになるため、未読の方はぜひ2015年のアドベントカレンダーの記事「トリックテーキングゲームの強度」を一読されたい。

2 既存の定義の検討

草場氏はその記事にて、トリックテイキングの「本質」を次のように述べている。

私の思うトリックテーキングの本質は、広い意味のマストフォローである。ここで「広い意味」というのは、例えばメイフォローも(広い意味の)マストフォローの一種である、といった用法の「広い意味」だ。

スートフォローのルールを、トリックテイキングの「本質」として規定している。少なくとも直感的には十分納得のいく規定である。
ではその根拠は何か? 草場氏自身は『これは私の感じ方にすぎない』と控えめに述べられているものの、そこをあえて掘り下げようというのが本記事のポイントだ。私がもしそこに裏付けをひとつ足すとすれば「現存する伝統的なトリックテイキングゲームの多くが、スートフォローの要素を有している」ということだろう。正確に数えたわけではないが、『トランプゲーム大全』に掲載された140項目ほどのゲームのうち、少なく見積もっても半数以上はスートフォローがゲームに関係しているはずだ。ゲームは歴史的に成立したものだから、歴史的な成り立ちに根拠を求めるのが自然であるし、その観点からもスートフォローをトリックテイキングの要件に含めることには概ね問題がないように思える。
もっとも、草場氏がご自身でそう述べられているわけではない。むしろ「強度」ではこれがメカニクス的な必然性、内的感覚の観点から考察されており、特に注目したいのが次の一節だ。

たとえばこの手のゲームで、スペードがリードされ、手札にスペードとハートの両方がある場合、必ずハートでなくスペードを選択して出さなければならない。すなわちこれがマストフォローだが、本来自由に選択できるはずのスペードとハートから、スペードを選択することを「強制」されるわけである。この強制された選択が、トリックテークに必須であることはお分かりであろう。

※原文では【スペード】と【ハート】は絵文字。置き換えは引用者。

マストフォローにおける「強制」の感覚を、トリックテイキングの本質と捉えていることが分かる。
ではワンスートのゲーム、たとえば「きゅうり」系はどうだろう? トリックテイキング的なゲームとしてよく紹介されるが、あれはトリックテイキングではないのだろうか? 草場氏の回答は明確で、ワンスートはトリックテイキングではない。

これは私の感じ方にすぎないのだが、私は、1スートではトリックテーキングは成立しない、言い換えれば、1スートではトリックテーキングゲームとは言えないと考える。もちろんそれは、私の考えるトリックテーキングの枠には入らないと言うのにすぎず、違う定義、違う感じ方もいくらでもあり得るとは思う。だがそれを承知で敢えて繰り返すのだが、1スートでは、私にはトリックテーキングとは感じられない。

しかし、それにもかかわらず「きゅうり」はトリックテイキング的なゲームとして紹介されることが多い。これはなぜか。当然トリックテイキングと共通する特徴を少なからず含むからだろうが、率直にいうと私は「きゅうり」がトリックテイキングでないと言われるとむしろ違和感がある。他の方も多少なりともそのような感覚があるからこそ「きゅうり」をトリックテイキング「的」と紹介するのではないだろうか。
『トランプゲーム大全』でのトリックテイキングゲームの説明には、次のような記述がある。

トリックテイキングゲームでは、各プレイヤーが1枚ずつカードを出していき、全員が出したら、最も強いカードを出したプレイヤーの勝ちとなります。これを、配られた手持ちのカードがなくなるまで繰り返します。
(赤桐裕二『トランプゲーム大全』(スモール出版、2014年)、19頁)

どうだろう、「きゅうり」にはこの記述に反する要素はないのではないだろうか。同様にスートを問わない古いゲームとして「トルック」や「プット」、「アルコート」がある。「きゅうり」はそれらのゲームに比べると成立がずっと新しく、Pagat.comの紹介ページには、バージョンのひとつである「Krypkille」が1949年に確認できると記載されている。とはいえ現代ドイツゲーム的なメカニクス分析の文脈から出たゲームではないだろうから、一応同列に並べておくことにする。
草場氏もワンスートを『定義の次の段階の試金石あるいはリトマス紙になる』と述べているように、定義の境界の一端はこのワンスートのあたりにあると思われるが、これらをトリックテイキングに含めない理由は何か? 先の引用箇所をもう一度確認しておこう。

本来自由に選択できるはずのスペードとハートから、スペードを選択することを「強制」されるわけである。この強制された選択が、トリックテークに必須であることはお分かりであろう。

しかし、私には次のような疑問がある。草場氏の文章の結論部分では、非トリックテイキングゲームを含めたフォローの強制力について『これは面白さとは無関係の順である』と述べられている。にもかかわらず、この線引きは「強制された選択が、トリックテークに必須である」という名目で、暗黙裡に「面白さ」の基準を導入しているのではないだろうか? 分類というのは、もっと純粋に形式的になされるものではないか?

定義を論じるときの違和感の根本はおそらくこのあたりにある。これはある意味では無理からぬことで、扱う対象が歴史的な実在のものである以上、もとより厳密に形式を定めることは難しい。ある程度定義が個々人の見解に依ってしまうのはやむを得ない。その点では文学や芸術の分類と同様で、人文系の議論の宿命ではある。
この違和感について別の観点から説明するために、次に私の見解を記してみたい。

3 自分の定義

主観的な言い方から始めるのを許してほしいが、定義はオッカムの剃刀に則って簡単であるほうがいいと私は思っている。そこで「トリックテイキング」という名称からこれを考察したい。トリックテイキング、すなわち「トリック」を「テイク」するとはどういうことか? 分割して「トリック」と「テイク」をひとつずつ見ていこう。

先の『トランプゲーム大全』の言い方を借りれば、トリックとは、各プレイヤーが(順出しで)1枚ずつカードを出すことだ。ドミノ牌や天九牌なども適宜カードと読み替えてほしい。このままでもよさそうだが、たとえば先の「きゅうり」や、象棋牌を使った「打棋子」には複数枚リードがあり、その場合は出し方をフォローしなければならない。より正確には「一巡で同枚数を順出し」がトリックの定義だろう。先の『トランプゲーム大全』の記述からしても、伝統ゲームの観点からはそれでよいと思われる。
テイクは字義通りにいうと「カードを取ること」だが、別にカードを物理的に取ることが必須ではない。トリックアボイダンス系のように勝ちを判別していればよいケースも多い。この場合の「テイク」は、トリックの勝者を決めることとみるのがより実情に近いだろう。もう少し現代的にいえば「出たカードに強さの順番をつける」と言いかえてもよいが、ここでは深くは触れない(TTPゲーム賞大賞の「アノウ」など、近年の作品には2位を決めるケースがある)。少なくとも伝統ゲーム的な考え方では、勝者(テイクする人)を1人決めるケースが大半だ。
分割した意味を再びまとめると、トリックテイキングの説明は次のようになる。

「一巡順出しで同枚数のカードを出し、勝ちを決めるゲーム」

これが私の定義だ。「トリックテイキング」という言葉を文字通りに説明しているだけ、見えた通りのプレイ風景を記述しているだけともいえる。トリックをテイクする遊びだからトリックテイキング。単純至極だが、定義はこのくらい簡単なほうがよいと思う。言葉の説明がそのまま定義の記述になるのは、それ自体に有用性があるはずだ。もちろんこの定義は面白さとは関係がない、ごく形式的なものだ。

したがってこの定義はスートフォローを含まない。マストフォローもメイフォローもワンスートもすべて含む。勝ちを決めるための要素、もっとも原始的にはランクさえあれば事が足りる。だから身もフタもなくいえば、トリックテイキングはただの数比べだ。決してこのジャンルを貶めているわけではなく、私はそれで十分だと考える。そして上の定義は実は『トランプゲーム大全』での記述とほぼ同じでもある。そのことの補足として、赤桐氏が次のように述べているのを紹介したい。

原理的にはトランプの最初の遊び方にふさわしい、非常に単純で素朴なゲームです。
(赤桐裕二、前掲書、19頁)

トリックテイキングは決して難しいゲームではない。「単純で素朴」なゲームだ。当然歴史の中でそこにスートフォローやビッドをはじめとする様々な要素が乗ってきたことがゲームに奥行きを生んでいることは間違いないが、要素の複雑さだけでなく、根本の素朴さがこのジャンルの強さを支えていると私は信じている。我々にとってトリックテイキングは輸入文化なのでその多彩さや複雑さがどうしても目につくのだが、単純なゲームであるという点はもっと認識されてよいはずだ。人に広めるという面でも、これは見逃せない観点であると思う。

するとどうなるか? そう、「きゅうり」も「プット」もトリックテイキングの列に堂々と加わる。歴史的に矛盾しないということは重要だ。より最近の作品だとたとえば「ゼロの恐怖」などもトリックテイキングに含めてよい。「ゼロの恐怖」ではスートは得点において重要だがトリックの勝敗には一切関与しない、しかしトリック内のプレイングとその勝敗においては先の定義をはずれない。このほうが考え方としてすっきりするのではないだろうか。
スートフォローは、トリックテイキングを奥深くするための「重要な要素・性質」ではあっても、このジャンルの「定義」そのものではない。単なる数比べでは面白くない、このジャンルの奥深さを説明できないと思われるかもしれないが、定義は面白さ・奥深さとは無関係であることは先に述べたとおりだ。

逆にいえば、ランクだけで数比べをするとつまらないのは自明であって、カードプレイに何らかの束縛を設けるべきことはゲーム性の観点からはほぼ必然だ。だからスートフォローはジャンル定義上の要請に相当程度近いが、しかしそれは公理に対する定理のような関係であって、あくまで定義とは切り離すべきだ。
それを示す一例として、「きゅうり」ではランクに基づくプレイ制限がかかることを指摘したい。これはスート上の制限ではないが、このプレイ制限が「きゅうり」にゲーム性を付与している。草場氏の「強度」という言葉を借りれば、スートフォローの強度は低い(無い)にもかかわらず、強制力という意味での(より広義の)強度はむしろ高い。別の言い方をすると、『トリックテークに必須』の『強制された選択』はスートフォローに固有のものではない。だからこそ我々は、少なくとも私は「きゅうり」にトリックテイキング的な性質を見出すのであって、先に述べた「きゅうりをトリックテイキングに含めないこと」の違和感はこの点、すなわちプレイング制限の強度をスートフォローという別の尺度によって分割していることにこそ原因があると思っている。

したがって私の見解を述べると、「トリックテーキングゲームの強度」とはより厳密には「トリックテイキングにおけるフォロー義務の強度」であって、プレイングにおける制約の強度とは非常に微妙な部分で異なる。そしてそのわずかな差異は、定義についての見解の相違からくる差である、というのが私の主張だ。
もちろんここまでの議論は、草場氏が論じられた内容の有効性を損なうものではないことも付け加えておきたい。

4 分類と境界

ではこの定義に従って、いくつかのゲーム類型を分類してみよう。

まずは自明な例、明らかにトリックテイキングではないものを、その理由とともにみておく。
たとえば「大富豪」はトリックテイキングではない。2巡以上のプレイが可能で、さらにパス可能なことで異なる枚数のプレイを許容するからだ。より踏み込んでいえばゴーアウト系は「手札を使い切ると勝ち」というゲームの全体像がトリックテイキングらしくないのだが、これは2巡プレイと異なる枚数のプレイが可能という点から導き出される「性質」であって、定義に照らすと上記の理由になる。
「ハゲタカのえじき」もトリックテイキングではない。数比べだが順出しでなく同時出しだからだ。同時出しシステムはスートフォローが機能しづらいことも「トリックテイキングらしくなさ」を強めているが、スートフォローに関しても「順出しか否か」という定義から導かれる性質というほうが近い(そもそも「フォロー」という言葉が、順出しを前提におくことを強く示唆している)。
逆に、一巡順出しであってもその巡の勝者を決めなければトリックテイキングではない。先のゲームマーケットで、そういうメカニクスを採用したとあるゲームが話題にあがっていたのでルール概要を見てみたが、トリックの勝者を決めないことによるゲームの全体像もトリックテイキングらしくなく、定義上は外して問題はなさそうだった。(繰り返すがこれはメカニクス上の分析の話であって、こうした分類とゲームの面白さとは関係がない。そのゲームに関していえば、トリック的な仕組みをうまく取り入れて独自の面白さにつなげようとしていると私には見えた。)

より定義の境界に近づくケースの話もしておこう。
ここでの私の定義も、根拠を歴史的な成り立ち、既存ゲームの分析に求めている以上、もちろん完璧ではない。だから疑おうと思えば疑える部分もあって、たとえば「一巡である必要があるのか?」「同数出しである必要があるのか?」といった疑問は、いわば定義の境界を問うているといえる。
私がスートフォローを定義に含めなかった大きな理由は、古いゲームの中に(トルックやプット、アルコートなど)スートフォローを含まないものが1つならず存在する一方、一巡でない/同枚数出しでないがトリックテイキング的な様相を備えるゲームは、少なくとも伝統ゲームの範疇であまり見ていないからだ。もし私が知らないだけでそうした作例がある程度存在するのならば、上にあげた私の定義も修正したほうがよいことになるだろうから、ここは指摘を頂けると嬉しいところだ。歴史的な反例を見つけていない限りにおいてひとまず定義とした、と理解してほしい。

そう、定義は今後も変わりうるものだ。
同数枚出しを破った作例として「フィリピノフルーツマーケット」の「ティンダハン」がある。トリック中にカードプレイを行わなくてもよく、その代わりに切札スートの陣取りという軸を取り入れた実験的なゲームだ。カードプレイを行わないときは陣取り駒の配置を行い、このときトリックには負けるものとして扱われる。現象としては0枚出しだが、最弱の1枚出しを擬制することにより、勝敗を決めるにあたって支障はない。
「PALA」も面白いゲームで、色をスートにしているのだが、原色と混色の2種類があり、原色2枚を混ぜて混色のスートとしてプレイできる。それによって同数出しでなくなっており手札枚数もばらつくため、ディールの終了条件がすこし複雑だ。1枚出しを原則にしているので「原則に基づく例外」として定義に入るというべきか、しかしこうなったら、私の定義の「同数出し」の部分を訂正したほうがいいだろうか。私は「同数出し」を残したほうが分類上は便利だと執筆時点では思っているが、見直す必要があるかもしれない。
一巡を目に見えるかたちで破った作例はまだ知らないが、サークル「倦怠期」さんの「dois」は若干その可能性に近づいているだろう。スートとランクを別々のカードに分離して、トリックごとに卓上でそれを上書きしてトリックテイキングを模擬的に行う、いわばメタ・トリックテイキングだ。形式的には一巡だが、内容的には常に直前のトリックを含めた2巡出しであるともいえる。「dois」はまさに境界線上にいるというか、現代的なしかたで定義を鋭く問う面白い作品ではないだろうか。定義について作者のタイシン氏が以前、このようなツイートをされている。



これは本質を衝いた指摘だと思う。タイシン氏は先の「dois」以外にも「luz」「Lua Cheia」といった、普通のトリックテイキングからひと捻りした作品を発表している。『定義そのものを話題にすることに特に意味は感じない』と述べているが、より重要なのは直前の『その後にメカニクスの与える影響やゲームとしての傾向などを語らないのであれば』という但し書きのほうで、ご本人は定義の境目でトリックテイキングのシステムを拡張するような試みを行っており、いわば実践的に『メカニクスの与える影響』を語っている。だから上のツイートは、定義というかジャンルの境界に踏み込むような作品づくりをするという創作スタンスの表れでもあると(あくまで私見だが)理解している。
(もちろん2年前のツイートなので、現在ではまた見解が変わっているかもしれない。そもそも過ぎた深読みかもしれないが、ひとつの解釈としてご笑覧いただければ幸いだ。)

だから、冒頭で述べた「定義を検討する意味」というのはこの、個々人のトリックテイキングに対する理解や考え方を問うところにある、これが本記事のもうひとつの主張でもある。特にどのあたりで線引きをするかで、個々人のカードゲームの捉え方、制作者ならば創作の目指す方向などが見えてくるはずだし、分析の道具を手に入れることにもなる。

こうした新しい試みの作品が今後数多く発表されてくると、そのうちトリックテイキングの定義はより広いものになっていく可能性がある。デザイナーが作品を手掛けるとき「トリックテイキングとは何か?」と自分なりの定義を考えることはシステム上の新たな試みを発案するための出発点になるだろうし、それを議論することも現代的なトリックテイキングを考察するためには有用だろう。
定義について論じるとき、われわれゲーマーはなかば自虐的に「トリテ警察」などと揶揄を込めて自称したりするが、現代的なゲームシステムの拡がりに目を向ける議論だと思えばそんなに悪いものでもない。創作ゲームがあふれる今だからこそ、自分にとっての定義を一度考えてみることは、決して無駄にはならないはずだ。



<2017/12/11>

←No.15 『あつトリっ!!』デザイナーズ・ノート No.17 クラマートラックは双六か→
コラム一覧へ トップページへ