クラマートラックは双六か


※この記事は「Board Game Design Advent Calendar 2017」の18日目の記事です。



 あなたが友人の家でボードゲームを遊んでいたとしよう。棚にクニツィアの「ケルト」がある。だいぶ上の取り出しにくそうな位置にあったので思わず「これ遊ばないの?」と聞くと、友人はこう答える。「うーん、何回か遊んだんだけど、結局双六だよなあと思って」。
 この見方、すなわち「ケルト」が双六であるという見解について、あなたはどう思うだろうか? 人によって意見の分かれるところだろう。私の答えはあとで述べるので、よかったら少し考えてみてほしい。今日の記事のテーマはこの問いから始まる。


 本稿は、ボードゲームにおける双六の使い方を考える。より詳しくいうと、前半で双六のもつ性質について、後半でボードゲームの中で双六がどのような立ち位置にありうるか、をそれぞれ考える。実践的なテクニックではなく、その前段階である概念を整理することに重点を置いている。そのため、既存のゲームを横断的に参照するよりも、抽象的な構造をとりあげることの方によりフォーカスした。
 また本稿は、ぷらとんさんのブログ記事「ルールとフィクションと部分的仕組みについての一考察」へのアンサーでもある。この記事を検討しながら議論を進めるため、興味のある方は先にこの記事を読まれることをすすめたい。

 ※今回とりあげるのは絵双六のほうで、盤双六(バックギャモン)は扱わない。サイコロを2個振らないものを双六と呼ぶかという議論は避け、一般名称として「双六」という言葉を用いる。

1 ぷらとん氏の議論を検討する
2 双六とは何か
3 「ケルト」は双六か、およびボードゲームにおける双六のウェイト
4 おわりに - ゲームに双六を導入する

ぷらとん氏の議論を検討する

 双六とはどういうものか。ぷらとん氏の上の記事(以下「一考察」と略す)はまさにその点を議論したものであり、見逃せない重要さを含むと私は考えている。まずは記事の内容をみてみよう。
 「一考察」の議論の起点は、サークル「ワンモアゲーム!」の梶野さんがツイートされた「ドイツゲームの双六には何があるか」というテーマである。最初に、何をもって双六の定義とするかという疑問を提起し、その答えとして「ルール(マス目にある駒を進める)」と「フィクション(マス目という場所やその繋がりに対するなんらかの意味付け)」が結びついたものが双六である、と主張する。そこから次のような結論を導き出す。

アナログゲーマーが部分的仕組みという意味で用いるメカニクス/システムという概念は、「ルール」のみならず、それが表現する「フィクション」とも結びついた概念である(少なくとも、そのような種類のメカニクス/システムがありうる)。

 先に私の立場を述べておくと、「この主張は一定の妥当性があるが誤りを含んでおり、少なくともただちに双六をこのように定義することはできない」というものだ。それを示すため、もう少し詳細にぷらとん氏の議論を検討してみたい。まず議論の後半で、ルールとフィクションの両面から双六を規定することの有用性について述べられた箇所があり、少し長いが引用してみよう。

しかし一方で、そのようにコマがマス目上を進む量の決め方をダイスに限定せず全くの任意の仕方に広げてしまうと、ゲームの「ルール」のみから、得点表にすぎないはずのクラマートラックを備えただけのゲームを「双六」ではないものとして捉えることは困難になるものと思います。そもそも、単純にあがりまでダイスを振ってコマを進めるだけの双六は、その「ルール」上、ダイスを振って得点した結果をマス目上のコマの位置で示しているのにすぎないわけで、クラマートラックと単純な双六のマス目との間には「ルール」上の本質的な違いはありません。これに対して、「ルール」だけでなく、各マス目に虚構世界上の場所としての特定の意味が与えられているかという「フィクション」上の限定を「双六」の要件として加えるならば、クラマートラックを備えているだけのゲームを容易に「双六」から除外することができるようになります。

 ここからは、「クラマートラックを双六から除外する」という議論上の要請があることがわかる。その理由としては記事の序盤で『定義によっては、クラマートラックを盤面に備えた全てのボードゲームが双六になって、議論がぼやけてしまいそう』と書かれているのがそれにあたる。クラマートラックが多くのゲームで採用されていることを考慮すると、この要請自体には私も同意する。
 しかし私が注目したいのはその直前、同時に例としてあげられた『単純にあがりまでダイスを振ってコマを進めるだけの双六』のほうだ。ぷらとん氏の議論に従えばこれは双六から除外されてしまうが、本当にこの「単純な双六」は双六ではないのだろうか? たとえば6歳か7歳くらいの子供が紙にマス目を30個描いて、スタートとゴールを決めて、サイコロを振ってコマを進め先に上がったほうが勝ち、というゲームを作ってきたとする。あるいは5マスごとに「1回休み」「2マス進む」等の指示が書かれている、という条件を追加してもよい。あなたはこれを見て、あるいは実際に遊んで「これは双六ではない、ダイスゲームの得点トラックだ」とただちに思うだろうか? そう断じることに若干のためらいを覚えないだろうか? この例は少々エモーショナルではあるのだが、しかしこのような双六にも既に「双六らしさ」が存在するからこそ、これを双六でないとただちに言えないのではないだろうか? さらに5マスごとに指示が書かれていれば、より双六らしさは強まる。それが形式上は双六でないルールに変換可能である、たとえば「得点合計が5の倍数になったら手番を1回飛ばす、ただし10の倍数になったら代わりに2点得る」と記述できるにもかかわらずだ。
 実際にぷらとん氏の文章でも、『単純にあがりまでダイスを振ってコマを進めるだけの双六』と、「双六」という言葉が使われているのは、これが少なくとも形式的には双六としか呼びようのない何かであると認めていることの証左ではないか、少なくとも私はそう考える。

 さらに次の点にも注目したい。クラマートラックを双六から除外する根拠として、「一考察」では次のように述べられている。

クラマートラックの各マス目は、「ルール」上の意味しか持たない得点の量を示しているだけなのですから、その区別は明快です。

 『ルール上の意味しか持たない』とは、彼の議論に従えば「フィクショナルな意味を有しない」と解することができるが、本当にクラマートラックにはフィクショナルな意味がないのだろうか? たとえばそのトラックの数値が貨幣単位であるゲームにおいて、その数値は「ドル」「フロリン」などと呼ばれたりするが、これはフィクショナルな意味付けにあたらないのだろうか?
 もちろん、ぷらとん氏の議論における「フィクション」とは場所が有する質的な差異のことであって貨幣の量的な差異とは意味が異なり(すなわちトラックの各マス目に質的な意味が乗っているわけではなく)、それを指して「ルール上の意味しか持たない」と述べていることは承知している。しかしそれでも「マス目が虚構世界上の意味を有している」という、メカニクスとテーマの対応関係という点においてこれらは共通の構造をもっており、たとえば所持金(点数)が10から50に増加したとき、プレイヤーがそこに単なるルール上の意味以上のフィクショナルな価値をゲームプレイの中で見出すことは、少なくとも皆無ではないはずだ。だから、ルールとフィクションとの結びつきをもって双六の要件とすることは、クラマートラックにもフィクショナルな意味付けを行えるという観点からは妥当といえないのではないだろうか。

 これは単なる細部の揚げ足取りではない。「一考察」における議論上の不整合、いわば裂け目であって、この議論の裂け目にこそ双六の性質を考える重要なヒントがあると私は思う。そのために我々は次に、ぷらとん氏のあげた先の「単純な双六」の例に戻り、別の観点からこれを調べてみよう。

双六とは何か

 「単純な双六」が、ぷらとん氏によればダイスゲームの得点トラックにすぎないこと(筆者はこれに同意する)、それにもかかわらず双六の体裁をとっていると見えることを先程述べた。「体裁」「見える」という言い方をしたのには理由があり、これはつまり、構造的には同型である1個のゲームがある形態ではダイスゲームの見た目になり、別の形態では双六の見た目になるということを意味しているからだ。言いかえると「単純な双六」において、ダイスゲームと双六は相互に変換可能である。
 「ダイスを1個振り、その合計値を競う」というメカニクスは変換の前後で保持されており、これがゲームの質を規定している。このように変換を通じて保持されるものをたとえば「機構(mechanics)」と呼ぶものとしよう。一方、双六はゲームシステムではあるものの、変換によって生じる「見た目」としてのシステムである。こうした、見た目上の変換を受けるものをここでは「表象(representation)」と呼ぼう。つまり、ゲームシステムには変換を受けない「機構」と変換を受けうる「表象」という2種類の階層があり、双六は後者に属する(なお本稿では「機構」のほうには立ち入らない)。
 だから「単純な双六」は容易にダイスゲームに変換可能だが、しかし同時にまぎれもなく双六であって、これらの性質は両立可能だということになる。

 双六についていえば、理論的にはどのような双六でも非双六的なシステムに変換可能だ。「単純な双六」をダイスゲームに変換するのはルールテキストへの変換であり、先にあげた「5の倍数なら1回休む」という程度のルールならば変換も容易だ。人生ゲームは各マスにテキストが割り振られているが、これも原理上はすべての得点に対してルールテキストを定義して、プレイヤーがそれを暗記/参照してチップで遊ぶことも可能である。そうしないのはひとえに実用上面倒だからであって、この場合は双六という表象に実用的な必然性があることになる。
 「エルフェンランド」も非双六的な表象、たとえばゲームブックやカードの形式に変換することは可能であって、各セクションに移動する際のリソースを明記しておけば双六ボードでなくとも遊ぶことは可能である。可能ではあるが、人生ゲーム同様に非効率だ。非効率というのは、具体的に双六から別の表象に変換するときのコストが大きいと言い換えてもよい。一方「単純な双六」は別の表象への変換がもっとも容易な例であり、このときのコストは最小であるといえる。そしてお気づきのとおり、クラマートラックもいわば変換コストが最小の双六だ。
 変換コストが高く他の表象への変換が困難ということは、双六としての固有性、ルール的な制約の結びつきがより強いということだ。結びつきは強度と言い換えてもよく、ここではそうした高コストのゲームを「双六としての強度が高い」と呼ぼう。ある双六ゲームの強度がどの程度かはゲーム性に依存するので一定の基準で容易に測れるとは限らないが、これが各ゲームによって異なり、この強度が量的な差異を呈することは見てとれると思う。強度が高いほどその双六は双六「らしい」といえるが、「らしさ」が薄いことがただちに「双六でない」こととイコールにはならない。

 だから、私の主張は次のようになる。クラマートラックから「エルフェンランド」等の双六ゲームまでには無数の強度の段階があり、強度が高いほどその双六は双六らしいといえる。一方、強度が低い双六であっても、双六という表象を用いているかぎりそれは双六であり、両者のあいだの違いは質的な断絶ではなく量的な差異である。ぷらとん氏の「一考察」は、双六のこうした量的な差異を二項対立的な断絶に還元した点が誤っていると私は思う。

 強度の内容をもう少しみておくと、直接的には「ルール上の定義」である。双六は数学的にはグラフ理論でいうグラフなので、双六の定義としては「グラフ的な表象を用いたゲームシステム」とするのがもっとも包括的だろう(たとえば「人生ゲーム」は有向グラフ、「エルフェンランド」は無向グラフである)。これに様々なルール上の制約を乗せることでよりゲームらしくなり強度が高まる。
 人生ゲームのマス目の指示はまさにそれであって、あれは要するに各マスに個別のルールが書かれているのだ。「エルフェンランド」の場合はもうすこし個別性が薄まるが、グラフの各頂点(都市)の名称や辺(経路)が記載されていたり、各辺の通過に必要なリソースが記載されていたりする、これはまさにゲームのルール定義だ。
 グラフという表象の上に乗るルール量が多いほど双六の強度は高まる。そのルールに対する意味付けがテーマやフレーバーと呼ばれるもので、これは直接的には変換強度とは無関係である。仮に「エルフェンランド」からテーマ性をすべて剥ぎ取って頂点PQRST、リソースABCDEとしたとしても双六としての変換強度すなわち固有性が下がるわけではなく、ゲームとしては双六としか表現しづらい類のものだ。「エルフェンランド」のフィクショナルな部分に双六としての固有性が見出されるように感じるのはルール定義をフィクショナルな文脈で理解しているからであって、そのように理解させるアラン・ムーンのデザインが巧みである、それだけのことだ。

 ただしここで付記しておくと、場所という概念にはフィクショナルな意味を乗せやすい。グラフは地点と道という現実的な表象によく一致するからテーマ的な連関を強く感じやすい表象であり、上のような理解が生じるのには必然的な理由があることは述べておきたい。ぷらとん氏の主張、すなわち『ゲームの「ルール」構造に関わる認識が「フィクション」の中味とも無関係でない』という点は、この意味で妥当性がある。

 しかしここで我々は先の問いに帰ってくる。ではクラマートラックはやはり双六ではないのか? これを双六に含めてしまっては議論が成立しないのではなかったか? それを検討するにあたっては冒頭に考えていただいた「ケルト」の例が役に立つ。

「ケルト」は双六か、およびボードゲームにおける双六のウェイト

 「ケルト」は概略次のようなゲームだ。各プレイヤーは何色かのランク付きの手札を持ち、手札は自分の前に各色を分けて並べる。並べ方は昇順または降順に限定されているため、各色2枚目を置くと以降に置けるランクは限定されてしまう。列に置いた枚数によって終了時にもらえる得点が異なり、ボード上の対応する色トラック上でコマを進めると、ボードに記載の点数でそれを確認できる。またボードの特定のマスに到達するとタイルがもらえ、タイル効果で得点を増やしたりコマをさらに進められたりする。
 本稿の文脈でいえば、このボードはまさに双六だ。カードによってコマをボード上で進めることによって効果を得たり得点を増やしたりして、多くのトラックでより進んだ人が勝つ。これを双六とみるのはごく自然だし、上記の性質にも反しておらず、定義上はまったく問題ない。

 なのだが、私自身の実感を正直にいうと「ケルト」は双六には見えない。それはこの双六がそれほど強度が高くないことも理由としてあるのだが、より重要だと考えているのが「プレイ中にボードを強く参照しているわけではない」という点だ。
 このゲームは場札を昇順か降順にしか並べられないのが機構上のポイントであり、それを限られた手札で行うところにジレンマがある。今ある手札で場札をいかに効率よく積み上げるか。大きい数値幅で妥協して手札を整理するか、それとも小さい数値幅で高得点を取ることを狙って粘るか、そのマネジメントのゲームだ。だからゲーム中に一番よく視線を向けるのは場のカード列や捨て札や手札であって、双六ボードが主眼であるわけではない。
 もちろんボードのマスに先乗りすることで特典のタイルを得られるため、その双六的な先乗りがゲームの立体感を生んでいる。これは、レビューサイト「gioco del mondo」さんの「ケルト」レビューがとてもよい紹介をされているので引用したい。

非常にプレイ感は軽いながら、クニッツィア特有のジレンマがしっかりと織り込まれ、さらに特殊タイルにより不均衡の場を作る事で戦略的な奥深さを与えている。

特に特殊タイルは、絶妙ともいえる配置と効果を持ち、ケチの付けようがない。無味乾燥としたロストシティに、立体的な構造を与えて、それが見事に機能している。

 しかし、それがゲームの主要素であるとは私には感じられない。実際にボードのないゲームに変換してこの機構を持ち込んだ「ケルトカード」というゲームがあり、そこでは得点スケールはルールテキストに記載されているのみだし早乗り要素もないのだが、プレイ感は大きくは変わらない。これは先の「変換」の具体例にもなっている。
 この話はゲームシステムのどの要素にウェイトを感じるかという感覚の問題なので、双六に見えるという人の感覚が間違っているとは思わない。一方で私のように、カードマネジメントを重視して双六でないとする見方も成立するだろう。それは上記のようにゲーム中の視線(意識)のありようだったり、双六としての強度の低さだったり(タイルはゲームの上では付加的な要素でしかない)に由来している。

 上の「ケルト」をめぐる考察で重要なのが、ボードゲームは単一のシステムのみから成るわけではない、という点だ。「ケルト」は双六を含むとは確実にいえる。しかし「ケルト」は双六ゲームである、すなわち双六をメインシステムとしたゲームであるとは必ずしもいえない、ということだ。
 だから、あるゲームが双六かどうかは、双六がゲーム全体に占めるウェイト次第だ。「エルフェンランド」が双六であるのは、ボードが双六であるうえに他のメカニクスが前面に出ていないからだ。同様にたとえば「ツォルキン」の寺院トラックは双六システムだが、「ツォルキン」を双六だという人はいないだろう。誰がどう見てもワーカープレイスメントである。
 こうして議論の線を追うと、クラマートラックを含むゲームを双六と呼んでよいかどうかが見えてくる。ここで改めて明言しておくと、クラマートラックは双六である。双六的な表象をとっているからだ。ゲームシステムの分析においてそう言及することは自明すぎてほとんど無意味でもある。しかし、クラマートラックを含むゲームがすべて双六であるとは言えないし誰も言わないだろう。クラマートラックがゲームにおいて支配的なシステムモジュールでないからだ。

 特定のシステムが支配的ということ、またはメインシステムであるということは主観的な問題ではある。それを私はさきほど「視線」という言葉で表現した。あるシステムがメインシステムかどうかを決めるのはプレイヤーの視線だ。これは、テキストの意味を決定するのが書き手でなく読み手であるということと同義である。
 クラマートラックは多くの場合ゲーム上の目的を表してはいる(勝利点の高いプレイヤーがゲームに勝つのだから当然だ)が、ゲームにおいてプレイヤーがクラマートラックのコマを進めようと考えているわけではない。プレイヤーの意識はあくまでカードや資源コマのマネジメント、ボード上の陣取り、マジョリティ争い、そういったものに向けられているのであって、ゲーム的にユーザーが視線を向ける、すなわち向き合う「対象」ではない。
 端的にいえば、「含む(include)」と「である(be)」は異なるということだ。いま述べたのは「である」の範囲が視線の方向によって規定されるということであり、これは「含む」かどうかとは相互に影響を及ぼさないことも既に触れた。「一考察」では『各々のゲームタイトルが持っている部分的仕組み』という記述があるためこの区別自体は自覚されていると思われるが、議論の展開においてどの程度この区別を重視しているかに若干曖昧なところがある。
 あるゲームが双六「である」か、トリックテイキング「である」か、ワーカープレイスメント「である」かは、個々のゲームにおけるシステムの配分によって議論の余地も生まれるだろうが、クラマートラック程度のウェイトであればほとんどのゲームにおいて議論の余地なく「このゲームは双六ではない」といってよい。これは双六の強度とはまた別の、ゲームにおけるシステムの重要性の度合いという観点からの「量的な差異」である。クラマートラックにたとえフィクショナルな意味が乗っていても、そこにゲーム上の意識が向けられない限りは支配的なシステムになることはない。

おわりに - ゲームに双六を導入する

 さらにこの主張は、ゲームを作るという観点でみると実はひっくり返すことができる。クラマートラックは双六なので、そこに双六固有の表象やルール記述を乗せることで、逆にクラマートラックのゲーム的な強度を高めることもできるはずだ。
 我々はその一変形を「ケルト」で既に見たが、他にも単純には「50点を最初に獲得したら何らかのボーナスがつく」といった仕組みでもよいだろう。コマをゲームテーマ上の重要な表象に見立ててその差に何らかの恩恵や罰則を課す、あるいは双六的にクラマートラックに分岐を作って、どのルートを取るかによってゲーム上の利益/損失が変化するような仕組みを導入する、といった色々なアレンジが(ゲーム的に面白いかどうかはともかく)仕組み上は可能だ。その双六としての強度が高まるほど、クラマートラックが少しずつ双六ゲームに接近してゆくだろう。

 また、最初に「単純な双六」の検討にあたって述べたように、一次元的に量が増減するものは分岐のない双六に変換可能である。簡単にいうと、数値は全部双六にできる。これは「ツォルキン」で双六をサブシステムとして組み込んでいるのと似ている。
 だから、ゲーム上何らかの一次元的なパラメータを用意しておいて、それをトラックとして表現すると早取りの要素を組み込むことができるし、既存の双六を参考にすることでより多彩な変化をつけることもできるだろう。一次元的なパラメータがいつの間にか二次元に拡張するかもしれないが、それもひとつの技法にはなるかもしれない。そこにテーマ的な表象を乗せることでプレイヤーの意識をより強くテーマに向けることも可能だし、逆にテーマを乗せない剥き出しのシステムでは、複雑な双六がゲームにフィットしないと感じられてしまうだろう。

 こうしてみると、結局私の議論の落ち着くところは、ぷらとんさんの結論と実はそんなに変わらない。クラマートラックのあるゲームを双六とは呼ばない点において一致しているし、実践的な場面においてフィクショナルな意味付けが重要性をもつというのも概ね同意するところだ。議論というのは得てしてそんなものだろう。
 ただそこに至る理路は大きく異なっており、その過程で得られた知見も少しはあるのではないか、そうであればいいと思っている。

 最後に、言うまでもなく本稿の議論はぷらとんさんの記事に多くを負っており、彼の記事なくして本稿は存在しない。その独創的かつ詳細な議論があったからこそ、それを読むことで新しい知見が得られたのであって、ぷらとんさんに最大限の感謝を。



<2017/12/18>

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