テーマドリブンでつくる




 ※この記事は「Board Game Design Advent Calendar 2019」の5日目の記事です。公開が1日遅れまして申し訳ありません。

 体調がすぐれないので、端折って書く。説明の分かりやすさは放棄して要点だけを言う。

定義

 ボードゲーム制作の文脈でテーマといったとき、おおまかに2通りの意味で使われる。全体の開発コンセプトの意味と、システムに直接関与しないフレーバリングの意味だ。
 前者の意味でテーマというとき、テーマドリブンで制作するというのはほぼトートロジーだ。作りたいものがあるから作る、その作りたいものをテーマと呼ぶのだから。だからここで自分が想定するのは後者だ。すこし正確にいうと、おおむね後者だ。もっと言えば、後者から前者に近づく動的なものとしてテーマを想定している。
 意味が分からないと思う。ふわっとしている。当座はフレーバリングと思ってくださって差し支えない。

自分の手順

 既存ゲームのアレンジを含めて、20作ほど作っている。パッケージ4作、トランプ3~4作、ポストカード3作、あとは名刺カードに印刷してジップロックで販売したものも多い。デベロップの手間はともかく、制作スピードはそこそこ速いほうだと思う。主題の前段として制作手順を説明してみる。

 最初は作りたいもののイメージをざくっと決める。出発点はフレーバーのこともあるし、システムのこともある。システムの場合、最初はゲームエンジンの種のレベルだ。フレーバーの場合はどんなエンジンで回すかを決める。システムの場合は逆にフレーバーを決める。そして、トリックテイキングやその他のトランプゲームなど、汎用的なカードを使って遊ぶゲームを除けば、自分はここで極力フレーバリングを決めてしまう。それによってゲームイメージなり世界観なりを具体的にして、それから実際のシステム構成を考える。
 それほど重いゲームを組んだことがまだないので、システムはワンアイデアを最後までそのまま回す手法をとる。ざっくり言えば、手番アクションがゲーム中に変わることはない。展開の多様性はゲーム内容、例えばリソース(狭義)の増減やプレイヤースキルの増加などで担保する。それでも60分クラスのゲームまではこれで作れるだろう。

 ひととおり考えたら、この時点で説明書のテキストを起こす。箇条書きレベルではなく、製品版の説明書になるべく近いものをこの段階で書いてしまう。説明書の構成や文体はかなり定型的なので、以前制作した説明書のテキストファイルをコピーして、構成を残したままで内容だけ変える。
 というか構成だけなら諳んじられる。タイトル、ゲーム情報、リード文、内容物、ゲーム概要(リード文に含めることもある)、準備、重要な用語説明(適宜)、ゲームの流れ+手番アクション、各アクションの詳細、例外処理、終了条件、勝敗判定、奥付。ここにゲーム内容をあてはめていく。その段階でシステムの考慮漏れやバグが見つかることもある。直す。内容物も仮決めですべて書き起こしてしまう。そうすると大体のコスト感も把握できるので、開発規模の見当がつけやすい。必要なものの漏れに気づいたらまた直し、それによって必要なラウンド終了時の処理を検出できたりする。
 つまり、説明書をきちんと書く段階でちょっとしたデベロップになるから、早めに書くほうがいい。それもなるべく製品そのままに出せるレベルのテキストが望ましい。想定するルールを文章としてクリアーに説明できないならば、システムに問題が伏在していることがあるからだ。早めにこれを行っておくことで、後々の開発時間を削減できるというのもある。
 ルールテキストが書けたらプロトタイプのカードやボードを作る。駒は他のゲームから借りてきたらいい。カードは名刺カードなりギャザのカードに付箋を貼ったり、ボードはA4のコピー用紙に手書きでざっと描いたり、構成が合っていればよい。あとはテストだ。本当はカードやボードも極力本物に近いインターフェースでテストを行うほうが正確なフィードバックを貰えるのだが、世界観だけでもなんとなくあれば無いよりはましだ。

テーマの意味

 で、本題だ。なぜテーマ=フレーバーを先に決めるのか。
 ひとつには、そのほうがテストが簡単だからだ。人はイメージからルールの導線を描くものだ。すべてをシステムだけの無機的な構成でもって説明すると、ルールどうしの連関や個々のルールの意味が頭に残りにくい。でっちあげでもこじつけでも、何かしらの《意味》を与えることで、ルールがエピソード記憶として頭に残る確率が上がる。カードやボードを製品版に近いものを用いてテストするのと意図するところは同じだ。もちろんゲームは遊んでいるうちにフレーバーからシステムへと人の目が移っていくもので、最終的にはシステムが見られるものだ。けれど、遊んでいるときにその緑色の駒が木なのか、生命の象徴なのか、薬液なのか、染料なのか、それによって遊び手のイメージが飛ぶ先は、ほんのすこしだけ、変わる。その手触り、カイヨワの言葉を借りればミミクリ(模倣)が、ほんの一瞬だけイリンクス(眩暈)に接続してもいる。
 そしてもうひとつ、こちらのほうが私にとって重要なのだが、システムを作るときの導線をフレーバーが引いてくれる。それは例えば細かいことで、地中海の交易をテーマにしてプレイヤーが船を持っているとする。メインシステムはピック&デリバーだが、交易がテーマならばピックに「買値」というコストが必要かもしれない。対照的に例えばフレーバーが宅配サービスならば、ピックにコストは発生しない。その代わりに移動速度が乗り物によって変わったり信号待ちが発生したりするが、海上交易ならば船なのでそういうことは考えない、など。ちょっとした細かい要素を決めるときに、フレーバーから逆算してシステムの細かい決めを行える。ここであまり例のないフレーバーをもし採用していれば、その逆算自体が新しいシステムの発想につながることがある。プレイヤーにとってそうであるのと同様に、フレーバーが自分の発想の導きとなってくれる。

 いや、もっと率直に言おう。自分には不思議でならないしすごいと思うのだけど――みんなどうやってシステムから先に作るのだ? システムだけで発想を構築しきって、そこからフレーバーを考えるときに、うまく条件に当てはまらないケースに遭遇して困難を覚えないのだろうか? 私にとっては、フレーバーを先に決めてシステムと並行して詳細を詰めていく、そのほうが当たり前のことだ。さらに突っ込んで言えば、フレーバーに合うようなシステムを苦心して考えることも多い。
 自作の大半はそのようなものだ。2年前に『あつトリっ!!』というトリックテイキングを作ったが、最初は「ゲーム中に「熱盛!」という単語が飛び交うカードゲーム」というコンセプトだけがあった。開発時間がなかったのでトリックテイキングを採用することにして、それを無理やりプレイヤーに言わせる、では言うとどうなるか? 言うとトリックかカードを取らせるしかない。トリックが取れるのではブルクハルトの『ウィリー』と同じになってしまう。ではカードだけ取らせる、そしたらポイントテイキングになるのも必然だ。そしてこのルールを素直に実装するとリードカードが消えてしまう、だったらリードスートもプレイ中に変えたらよい(これはテスト時のアイデアを採用した)。システム先行開発では、まずこんなものは思いつかない。
 先日作った『三津浜』もそうだ。起点はゲームエンジンとして「サイコロを振り、それを競りの対象にする」というだけのものだった。その時点でフレーバーを考え、競りからイメージしやすい魚にサイコロを見立てた。仕入れた魚をどうするか? 当然手元の倉庫にしまい、割烹に所定数の魚を卸す。フレーバーがあれば、カードの見立てに迷うことがない。それをテストにかけて、プレイヤーから頂いた意見に「魚の競りというフレーバーなら同時競りがよい」というものがあり、これも迷いなく採用した。システム先行で詰めてからフレーバーを考えると、開発後半で重要な部分を動かしてしまいバランス調整に支障をきたす恐れがある。逆にフレーバーを先行して決めることがシステムに余程悪影響を及ぼしたケースは、自分が経験した限りではない。
 500円のジップロックゲームは、ほとんどその手順で作っている。時事ネタをテーマにするのでフレーバー先行は必然だ。ではそれをどうゲームにしていくか? その対応を考える過程で新しいシステムが生まれる。ワーカーダイスが一方向にしか移動できないダイスムーブメントだの、カードの表裏でスートを表現するトリックテイクだのを作った。最終的に面白くなるかどうかはテスト&デベロップにかけられる時間次第だし正直転ぶことも多いが、実験の場として自分にとっては欠かせないものとなっている。

 ゲームは本質的には数字の遊戯だ。最終的な勝敗を得点に一元化して勝敗を決めるからだ。少なくともそれが、我々がここで語っているボードゲームの指すところだ。だからボードゲームというのは、カイヨワの分類でいえば、アゴン(競技)が下敷きとしてある。
 それに比べればミミクリもイリンクスも必要条件ではない。ユーロの大半はシステムだけを抜き出しても面白く遊べる。だけどアブストラクトでないボードゲームがこんなに好まれるのは、我々がボードゲームに求めるものが単なる競技以上のものだからだ。我々がフレーバーやコンポーネントやインターフェースを通じて触れているものは、単なるシステム以上のものだ。フレーバーはシステムに奉仕するだけの道具ではない。フレーバーを触りながらシステムに、そのロジックに触るだけでなく、システムを触りながらアートに、フレーバーに、そのイマージュに触る。イマージュがロジックを凌駕することも、きっとある。
 そして私は、イマージュを組み立てるつもりでゲームを作る。エクスペリエンスと言ってもよい。もちろんそれはシステムという形に落とし込んだ抽象化された現実であり限定的なエクスペリエンスだが、抽象化したときにふっと表れる本質というものがある。抽象化しつつ、でもある本質だけを的確に感じられるように、現実=イマージュ=システムの写像関係を丁寧につけていく、その過程がシステムデザインだと思っている。そうやって現実をなぞりながらシステムを引き出していったときのほうが、結果として新しい試みの作品を形にできることが多い。

 システム先行がやりづらいのは、どうしても既存の型から抜け出せないからだ。米光さんが前日の記事でおっしゃっていたが、プレイイメージを変えないことが大切だ。私の場合はプレイイメージというほど明確にはもてず、もうすこしシステム寄りに発想するけれど、それでも原点はエクスペリエンスからなるべくずらさない。システムを借りて問題をsolveしていくと、ゲーム全体が借用にしかならず、形にならないで終わってしまう。新しいシステムを作ることが目的になってしまう。そうすると、技巧に落ちる。
 だから私の立場は、1日目のおーのさんの記事とは逆にある。それは個々人の好みや発想のクセによるところが大きいだろうし、あの記事を否定するわけではなく、逆の立場も成立しうることを述べるものだ。ユーロの核がイリンクスにあるという立場にも必ずしも同意せず、ミミクリとアゴンの配分でユーロとアメリカンが変わるもので、イリンクスはその過程において模索するものだ、という立場だ(カイヨワの分類も体系的ではなく、あくまで手掛かり程度のものだろう。そのままモデルとして使用するには耐えないとユールが確か指摘していた記憶があり、私もそれに同意する)。けれどそれはどちらがどうというものではなく、個々人が自分の開発モデルを構築していくものだろう。

おわりに

 時間があればもうすこし例をあげたかったが、そうすると1日以上記事のアップが遅れてしまう。個々の作品のデザイナーズノートなども別の機会に書きたい。
 だけど私は、テーマドリブンには明確な利点があると思っているし、それはドイツ/ユーロの本質と相反するものではないとも思っている。ユーロはシステム、アメリカンはテーマ、確かにそうだ。ざっくりした話として私も異論はない。けれど、アメリカンだからテーマ先行で作らなくてはいけないわけではない。ユーロだからシステム先行で作らなければならないわけでもない。それは話が逆だ。

 テーマから、フレーバーから作っていても、ユーロを目指せばユーロになる。ドイツを目指せばドイツになる。北村薫が、本格ミステリは型ではない、精神だ、と言っていたのに倣って、ドイツゲームも型ではない、精神だ、と言っていいのだと信じている。



<2019/12/06>


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