エルグランデとシュタウファー、またはユーロにおけるモジュール




※この記事は「Board Game Design Advent Calendar 2018」の10日目の記事です。

 『シュタウファー』という陣取りゲームを題材に、ごく個人的な感想を述べてみたい。
 最初に正直なところを言っておくと、私はこのゲームがそれほど得意でない。プレイで勝てないという意味でもあるし、好みにそれほど合わないという意味でもある。といっても嫌いというほどではないし(実際所持しているので)リクエストがあれば遊ぶけれど、常に積極的にプレイしたいほどでもない、くらいの立ち位置だ。ただ美点もあれば興味深い点もあり、今日書きたいのはそういうゲームのことだ。

陣取りの古典、エルグランデ

 その前にまず、比較対象として『エルグランデ』(1995年)をとりあげてみたい。同じ陣取り=選挙ゲームとして共通する面がいくつかあり、考える手助けになるかもしれないからだ。単に好みでいうとエルグランデのほうが好きなのだが、比較してゲーム自体を持ち上げたい/貶めたいわけではないことをご理解いただきたい。
 エルグランデは概略次のようなゲームだ。場の中央にはスペインの9つの領土を示すマップ(うち1つの領土上にキングの駒がある)や、木製のタワー、アクションカード等があり、この領土に置いた騎士の数で陣取り争いをする。プレイヤーは騎士を表すキューブと数字カードとを持つ。各ラウンドでは数字カードを順に公開し、大きい数字を出したプレイヤーから順にアクションカードを1枚選び、アクションを行っていく。アクションカードに記載された「領土に置ける騎士の数」に従って騎士を置き、特別なアクション(置かれた騎士の移動、王の移動、1ヶ所の即時決算など)を実行する。ゲーム中3回の決算で、領土ごとに置いた騎士の数が多いプレイヤーが報酬として点数を貰え、合計点が高いプレイヤーが勝つ。
 ゲームの仕組みは単純で、手駒(騎士)を効率よくスペインの領土に配する陣取りである。いくつか特徴的なポイントがあり、まずキングの駒の存在。アクションカードで騎士を置くときはキングの周りにしか騎士を置けず、しかもキングのいる領土自体には騎士を置けない。この不可侵という性質がゲーム上の戦略的な意味合いだけでなく、象徴的なインパクトも与えている。さらに、キングの駒と並んで大きい木製のタワーがあり、自分の騎士を領土に置かずこの中に放り込むこともできる。これは決算時に1つの領土に移動させることで、最終的な陣取りの帰趨を変更できることがある。
 タワーやキング、そして大きく広がるスペインの地図、これらが重なったゲーム自体の佇まいが個人的には強く印象に残る。プレイ戦略上の重心はむしろアクションカードや数字カードの側にあるのだが、それにとどまらないスケール感がある。

現代的なバリエーション、シュタウファー

 この話を下敷きにして、次に『シュタウファー』(2014年)について考える。
 ゲーム概要は以下の通りだ。6つの領地で構成される六角形のゲームボードが中央にあり、各プレイヤーはこの領地に自分の駒を置いた数で陣取りをする。領地ごとに置ける駒のスペース数が2つ、3つ、4つと割り当てられており、各スペースに置くためのコストが決められているのが特徴だ。さらに領地自体に置くためのコストも別途発生し、コストはすべて駒で支払うため、1つ置くために必要な手番数は多い。後者のコストを決めるのが「王」の駒で、王がいる領地から時計回りに0、1、2、…と配置コストが増えてゆく。
 手番でできるのは駒の「配置」「補充」の2択で、配置を先にかけるとマップ上の決算で優位をとれるが、補充を先にかけるほど次ラウンドで手番が早くなる。決算は5回あり、領地に対応する旗のタイルをシャッフルして領地の決算順を決める。各決算ではしたがって1つの領地しか決算されない。
 ほかに、エルグランデの特別なアクションに相当するものとして宝箱チップがあり、各領地のスペースに駒を置くと貰える。エルグランデはアクションが配置と同タイミングだったが、シュタウファーの場合はそれが遅延するイメージだ。

 こうして書いてみると、思いのほか似ている。もちろん根幹にある陣取り=選挙のメカニクスが共通だから印象は似てくるのだが、それ以外にもキング(王)の存在や特殊アクション――もちろん大半のゲームにこういう特殊効果はあるのだが――、さらに中世ヨーロッパを舞台にしたゲームの雰囲気など、シュタウファーがエルグランデを参照しているという印象はやはり受ける。
 後発ならではの洗練はあって、いちばん大きいポイントとして、シュタウファーのアクションは配置と補充の2択しかない。もちろん陣取りであるから「どこに配置するか」の選択肢が見かけ上はそこそこ多いのだが、それも駒コストに縛られるため実質的には制限されるし、プレイヤーのアクションに対する見通しは良い。手番も中央ボードの手番トラックを参照すれば自動的に決まる。エルグランデは数字カードを選び、それからアクションカードを選びと、いわゆるダウンタイムが案外長いのだ。
 さらにシュタウファーのボードは可変である。六角形ボードは最初からあるのではなく、ミラノやパレルモといった各領地を表す台形ボードを6枚組み合わせて六角形にする。だから毎回ボード構成は変わるし、決算順も旗タイルによってシャッフルされて変わるので、組合せは多岐にわたる。ここでの台形ボードや旗タイルがいわゆるモジュールというやつで、プレイヤーによって任意の/ランダムな組合せが可能であることから、リプレイ性の高さを保証している。

ユーロとモジュール

 なのだが、正直なところを述べると、私のシュタウファーに対する印象は薄い。
 ゲームがゲームとして頭に入ってこない。理由はいくつかある。さきほどボードが可変であると説明したが、つまりこのボードは地図でない。各地名が実際の場所どおりに並んでいない。もちろん王が巡察地を回るという設定はあるのだが、なぜその順に回るのかというゲーム上の必然性がない。しかも巡察順は1マスでなく、タイルによって飛ぶのだ。もっと言えばこの地名はただの記号であって、ミラノ、パレルモ、アーヘンの代わりに常総、相模、甲斐などとしてもゲーム上まったく差し支えないし、アルファベットの頭字や色で呼んでも構わない。そのせいか、王も象徴的な効果というよりは、駒配置のコスト計算のための点という機能的側面を強く感じる。
 決算順も宝箱配置も変わることによって盤面が毎回異なる。さらに個人別の目的カードまであるので、全体の情報量はかなり多い。初見で把握するのは相当に労力を要する。ゲームを遊びながら印象として強く残るのは、地名でもなければ盤面でもなく、《六角形に時計回りで駒を配置する》という極めてシステム的な骨組みだ。エルグランデでアクションを覚えない代わりに地図の雰囲気を覚えるのとはまったく対照的である。
 だから私は、シュタウファーについてどんなゲームかと聞かれたときに、たとえば100字で、3行で、語る言葉を持たない。雰囲気やテーマでこれこれこうする、というざっくりした説明ができない。「六角形のボードに駒を置いて選挙をしていく……」と、システム的な言葉で逐一説明せざるをえない。
 もちろんそれがただちに短所だとはいえない。システムが面白いことはゲームとして重要だ。それこそを美しいと感じる向きもあるだろうし、逆にエルグランデに洗練の不足を見て取ることもあるだろう。実際あれはあれで1プレイが重いし、必ずしも見通しが良いわけでもない。私が言いたいのは全体的な優劣のことではなく、ゲームのまとう一種のアウラという観点に限ればエルグランデのほうにより分がある、ということだ。

 私はそれを、モジュールの機能がもたらす弱点だと思っている。
 モジュールは可変性をもたらす。ランダムネスを生成し、ゲーム中の可動性を可能にし、多様性を作り出し、リプレイアビリティをもたらす。だがそれはゲームの体験の質とは別のことがらであって、可変であることには《記憶されない》という裏の側面が常につきまとう。
 エルグランデのアクションカードもそうだ。あれも一種の可変で動的なモジュールであって、どのような種類があるかはなんとなく覚えても、それが印象を残すものではない。そもそもエルグランデはカードを見るゲームではなく盤面を見るゲームであり、だからこそスペインの地図が(領土の配置やその得点は覚えないにしても)印象を残す。だがシュタウファーは、視線が向く当のボードそのものが可変なのだ。あの盤面はデータでできている。何番目の領地が何点の配分か、宝箱はどこに何があるか、決算はどの順で王は何歩動くか。モジュールの生成した情報を読み解く負荷が高いゆえに、記憶に足跡を残さない。
 苦手、と述べたのはそういうことだ。私個人の理解力が追いつかず負荷が高い。だからゲームとしては1回のプレイではなく、繰り返して遊ぶことを想定しているのだと思う。実際こうやって説明書を参照しながら書いていると不思議と遊びたくなってくるものだが、その印象を思い出すことが難しいこともまた事実だ。

 モダンユーロ/ピュアユーロ、という二項的な言い方がある。どちらが好みかという文脈でよく言及されるが、私個人の好みとしてはピュアユーロのほうと答えることが多い。あえて話を飛ばしてしまうことを許してもらえば、その違いのひとつには、モダンユーロがこういったモジュールの仕組み等によって(それだけではないだろうが)、ウェルバランストな、リプレイアブルな、体験の水準を保証している一方で、要素を平準化することによってアウラが消えてしまう側面があるのではないか。もちろんこれは私の想像であり印象にすぎない。ただ、シュタウファーを遊んで感じるのはそのようなことだし、モダンユーロのある側面が端的に表れたゲームであると思っている。
 上の印象をモジュールという観点で説明すると、たとえば各モジュールにはおそらく偏りをもたせるほうが個性という点ではよい。マップをモジュールにするなら、1枚のモジュールに個性があり、各モジュールが不均等であるほうがゲームとしての印象は強くなる。エルドラドのルートやバロニィのマップのイメージだ(ちなみに筆者は前者は好きだが後者は苦手だ)。マップではないがテラミスティカの種族ボードもそうだろう、あれこそ個性の塊である。
 逆に各モジュールには単一機能しかもたせず、全体の配分で個性をもたせるやり方もある。カタンの土地タイルと数字チップがまさにそれで、土地は1枚につき1種類の機能しかないから毎回マップはバラバラなのに、全体の「カタン的な形象」なるものは毎回のセッションで見事に保たれる。これはおそらく、資源の配分(レンガと鉄が他のタイルに比べて少ない)が不均等であるのと、建設コストが固定されているのとにより、プレイヤーの体験の質がある程度一定に揃えられるためだろう。もちろん資源の名称・見た目自体が強い個性を持っているというのもある。
 どちらにせよ、モジュールと個性とをどこで折り合わせるか、という問題だ。分解の単位を大きくするか小さくするか。ゲームとしてどこまで均質にしてどこまで崩すか。崩すとゲームバランスが崩れてしまう危険が常にあるのだが、しかし崩れがもたらすその断面こそがゲームの個性でありアウラであって、その断面の大きさを探っていくのがゲームデザインである、と思っている。

 繰り返しになるが、以上は私の個人的な感想であって、ゲーム自体を悪く言いたいものではない。エルグランデもシュタウファーも、再戦する機会が多くあればいいと願っている。



<2018/12/11>


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